七彩マネキン物語

第30話...古きを尋ね、新しきを知る。

29回にわたって連載してきたこの物語も今回で一応区切りを迎えることにしました。連載と言っても実際は不定期で、お読み頂いていた皆様にはさぞかしご不満があったことと思います。先ずはお詫び申し上げます。 

七彩は今年で創業57年を迎えます。彫刻家向井良吉と日本初のマネキン企業島津マネキンの創始者である島津良蔵を中心に、1946年7月京都で産声を上げました。七彩マネキンの源流は、1925年に京都の島津製作所によって創業され、1943年、戦火拡大の中で休止を余儀なくされた島津マネキンに端を発します。1975年に島津製作所が創業100年を記念して発行した小冊子「島津製作所の歩み科学とともに100年」では、"戦後、島津良蔵をようして向井良吉、門井嘉衛らマネキン人形を捨て得ぬ人々が、会社再興を図ったのは当然である。だが、島津製作所の中に、それを蘇らせることはできなかった。これらの人たちは曲折を経て、七彩工芸株式会社(現、七彩)を建て、島津マネキンの源流を、自分たちの流れの中に見事に導いている”と記述されています。

島津良蔵がこの世を去って、今年で早28年の歳月が流れ、生前を知る社員も数少なくなりました。この間、社会は劇的な変化を遂げ、七彩もその対応を余儀なくされました。「古きを尋ね、新しきを知る」・・・。この連載を終えるにあたりもう一度七彩の源流をひも解いてみることにしました。島津マネキンは、1925年に島津製作所マネキン部として発足しました。島津製作所がマネキンに関わりを持つことになった要因は二つあると考えます。島津製作所は明治期より標本を手がけていたこと、とりわけ人体模型の製作技術では、世界的評価を受けていたこと、この技術が大正年間に入りパリから輸入され始めた蝋製マネキンの修復に役立ったことがマネキンと関わりを持った一つの要因と考えられます。もう一つは、島津良蔵の存在です。二代目島津源蔵の長男であった島津良蔵は、父が志向した物理化学の道を進まず、東京美術学校(現、東京芸大)で彫刻を学ぶ等、芸術を探求をしたのです。当時から先端技術を誇っていた島津製作所にあって、島津良蔵は異彩を放つ存在でした。

七彩に残された資料の中から島津良蔵に関するエピソードを要約してみますと・・・・・。①洋装マネキンを創るためには日常的に洋風を取り入れることの大切さを説いた。 ②日常的に芸術論やマネキン論をたたかわせ純粋彫刻作家が商業美術の分野に関わることの難しさを説いた。 ③ドビッシーやラヴェル等当時としては前衛的な音楽を社員に聴かせるとともに情操教育の一環としてマンドリンクラブをつくり演奏会を開いた。 ④芸術やモードに関してその時代の先端を行くアーチストやデザイナーとの交流の場を重視した。 ⑤マネキン製造に関して、原型製作者の思いが全工程の中に反映するよう自然な交わりによる人間関係を重視した。⑥顧客の声に耳を傾けることを常とし、新作発表展示会では、来場者とマネキン作家の対話を心掛けた等、記録が残っています。

去る1月23・24日の両日、大阪南森町にある、島津マネキン創業当時に建てられた古いビルの一室に、七彩が保存しているマネキンを中心とした各種資料を展示しました。「勉強会」と銘打ったこの展示は、主として社員が、新しい商品知識とともに七彩の源流をしっかりと眼に焼き付けることにありました。心を込めて創られたものは、風雪を越えて今もなお、彩りを放ち続けていることを、確かめることが出来たのでした。(終り)

  • 七彩大阪支店「勉強会」の展示空間
  • 七彩大阪支店「勉強会」の展示空間
  • 七彩大阪支店「勉強会」の展示空間
  • 七彩大阪支店「勉強会」の展示空間
  • 七彩大阪支店「勉強会」の展示空間

    七彩の歴史的資料マネキン:七彩大阪支店「勉強会」の展示空間
    (大阪南森町フジワラビル4階)

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