七彩マネキン物語

第13話...三宅デザイン事務所とのコラボレーション①

コスチュームデザイナーとマネキンの関わりは、マネキンの発祥地パリはもとより、日本でも1930年代の島津マネキン時代から戦後においても密接でした。七彩も1950年代には、桑沢洋子さん、笹原紀代さん、杉野芳子さん、田中千代さん、藤川延子さん、を初めとした多くのデザイナーの方たちとの交流があり、新作マネキン展のためのコスチュームデザイン等でご参画いただきました。

1970年代には、世界的な評価を受ける日本人デザイナーが相次いで登場しました。そのひとり三宅一生さんを中心とした三宅デザイン事務所と七彩のコラボレーションは,1970年代前半以来今日まで25年余に及んでいます。マネキンとの関わりを中心に、そのいくつかを紐解いてみましょう。

1974年東京港区北青山にISSEYMIYAKEブティック第1号店がオープン。スーパーポテトの杉本貴志さんデザインの空間に、ジャン・ピェール・ダルナ制作の抽象マネキンが登場しました。続いて1975年、三宅一生さんが企画、オーガナイズに参画された「現代衣服の源流展」(会場:京都国立近代美術館)で、七彩はこの歴史的な展覧会のマネキン制作を担当しました。さらに1978年、パリルーブル美術館の装飾美術館で行われた秋季芸術祭(間)に三宅一生さんは、四谷シモンさんとともに参加、この時七彩は等身大の雲水人形を制作しました。そして1980年に開催された「浪漫衣裳展」(会場:京都国立近代美術館)でも三宅一生さんはオーガナイザーとして参画。この時も七彩は、ニューヨークメトロポリタン美術館と京都服飾文化研究財団とともに、時代衣裳展示用のマネキン制作に関与しました。

1980年代に入り、当時三宅デザイン事務所のアートディレクターとして、ショウの構成・演出を担当されていた毛利臣男さんとのコラボレーションがスタートしました。1982年12月。ラフォーレミュージアム飯倉で行われた「イッセイミヤケビデオパフォーマンス」は、それまで服を着せて見せることが主たる役割であったマネキンが、服と空間を結ぶメディアとなったのです。しかも廃棄されるマネキンを蘇らせることによって、まったく新しいオブジェに変貌させるという斬新なコンセプトでした。一列に並べられた30台のモニターに一斉に映し出される打寄せる波やパリコレの映像、音、光がシンクロする空間に、再生紙を全身付着させた数十体のマネキンが、足場パイプで構成された棚とフロアに配置されました。廃棄される「運命」にあったそれらのマネキンに、思いがけなくも劇的なドラマが訪れたのです。イッセイ・ミヤケの最新のコレクションを身に付けることによって、「至福の時間」を与えられたマネキンたちは、「静なる美」を空間にもたらせ、見る人々の心をゆり動かしたのです。このパフォーマンスとともに、翌年開催された「イッセイ・ミヤケスペクタクルボディワークス」(次回紹介)は、デザイナーとマネキンの関係において、空間とマネキンの関わりにおいて、クリエーションのひろがりを示唆する点において、世界に類例を見ない画期的な出来事として、今も鮮烈に記憶に焼きついています。(つづく)

  • イッセイミヤケブティック1号店

    イッセイミヤケブティック1号店(東京:北青山)1974年/PHOTO:nanasai

  • ビデオパフォーマンスの空間

    ビデオパフォーマンスの空間(東京:ラフォーレミュージアム飯倉800)1982年/photo:nanasai

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