七彩マネキン物語
第20話...ダルナの死、最後のダルナマネキン
(4話・5話も合わせてお読みください)
20世紀後半の日本のマネキン界に多大な足跡を残したフランス人マネキン作家、ジャン・ピェ-ル・ダルナ氏(以後ダルナ)は、昨年2月26日パリでその生涯を終えました。
1994年夏、大野木氏と二人でパリ郊外の氏のアトリエを訪ねた時は、彫刻から一旦手を引き、専ら絵画制作に専念しているとのことでした。二人が1989年12月にバスチーユのレストランでパリの友人たちと夕食会を催した際、夫人とともに出席した時のダルナの元気さはなく、病魔に冒されている旨の話を聞かされました。その後大野木氏は、一度だけパリで会う機会がありましたが、その時は、再び彫刻に取り組みたいとの意欲を燃やしていたとの話を聞き、内心ほっとしていました。したがって突然の訃報は衝撃的でした。心の片隅にダルナとダルナマネキンの実像を焼き付けておられる方には、ダルナの死を知ったことによる衝撃とともに、在りし日の残像が蘇ってくるものと思われます。
この物語の4話で明らかにした通り、ダルナが七彩と日本のファッション空間のために創った、最初のマネキンが発表されたのは1959年でした。それから27年後の1986年に、パリのアトリエで制作された、最後となったダルナシリーズが発表されました。カタログには「清潔感に満ちあふれたしなやかでセクシーなボディ。ダルナ氏自身の円熟した美意識が見事に花開きました」と記述されています。ダルナは27年間に87ポーズのマネキンを創作しました。
ダルナマネキンは数多くの人々に愛されましたが、東京・銀座松屋のダルナは鮮烈な記憶として脳裏に焼き付いています。宮崎倉治氏を中心としたディスプレイチームの手に掛かると、ダルナマネキンは、思い通りのイメージの色に染められました。マネキンをウインドーのガラス越しに見つめると、まるで意思が吹き込まれたかのような錯覚を覚えました。そして極めつけは、1986年発表のダルナシリーズ・FF-76が、1992年夏のキャンペーンのキャラクターモデルとして起用されたことでした。通常はウインドーや売場に使われるマネキンが、ポスターや新聞広告に大々的に登場したのです。マネキンのヘアメークは、渡辺サブロウさんが担当されました。静寂な時間の経過とともに、ダルナマネキンの美の真髄が浮かび上がって来ました。魅惑的なダルナマネキンが、サブロウさんのメークアップによってさらに耀きを増し、眩いまでの美しさとなり仕上がりました。
最後のダルナマネキンシリーズが発表されてから、早や15年の歳月が流れました。日常的にダルナマネキンの姿を倉庫で見かけることは少なくなり、街からもその姿がほとんど消えました。ダルナもこの世を去り、心さびしい限りでしたが、ダルナマネキンの生命力が決して衰えていないことを証明する最近の事例をご紹介します。
今、人気ブランドのサンエーインターナショナル発の「コイガール・マジック」のショップに寝ながらはしゃいでいるポーズのマネキンが、ブランドイメージを訴求するキャラクターとしてディスプレイされています。このマネキンこそ、1977年発表のダルナマネキンFF-55であり、細身のジーンズを見事にはきこなしたことで採用されました。
今年7月、週刊誌「SPA!」が美脚を特集。ダルナマネキンの脚の美しさについて作家、写真家、版画家である伴田良輔氏が賞賛されています。
マネキンは、時代とともに生まれ、時代の変化とともに姿を消していく存在ですが、一旦人の心をとらえたマネキンの残像は、いつまでも人々の心の奥深くに残るものです。その意味でダルナマネキンの美は、時代を超えた永遠のものと言って過言でありません。(文責/広報担当:藤井)(つづく)
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松屋の全面広告に登場したFF-76/1992.4.28付朝日新聞夕刊