七彩マネキン物語
第22話...ニューヨークに七彩アトリエ開設
日常性から脱皮し、感性を揺さぶる刺激の中で、マネキンを創作すべきとの発想のもと、1990年11月から1991年10月まで2年間の期限限定で、ニューヨークのソーホーにマネキンを創るためのアトリエが開設された。当初はパリとの話もあったが、検討の結果、ニューヨークに決定した。
現地で不動産屋を営んでおられる日本人のA氏を通じ、当時新しいアートやファッションの震源地であったソーホーに、天井が高く、中2階のある手頃な物件が見つかった。但しソーホーはアーチスト個人でないと、賃貸契約が結べなかったため、東京造形室長の加野正浩名義とした。この2年間、東京造形室の当時のメンバー5名が対象となりニューヨークで生活しながらマネキンを創作した。加野は全期間、他のメンバーは半年間滞在した。
その間、加野はFITのクロッキー教室に、清水(第17話に登場)も、彫刻を学ぶため別のアートスクールに通った。清水は帰国後、クロッキーの時間に直視した黒人女性の身体のフォルムの美しさに衝撃を受けたと語っている。
アトリエでは、基本的に自炊だった。チャイナタウンは、新鮮な食材が安く入るとあって大いに利用した。たまには、ロブスター1人1匹と言う豪華メニューのディナーもあった。こうしてアトリエのメンバーは、多様な人間を見つめ、ニューヨークの空気を体感しつつ、マネキンを模索し、思考し、発想し、創作した。
加野はこのニューヨークのアトリエで「ADA」と「BELL」の2シリーズを生み出している。最初に完成させた「ADA」は、ニューヨークで生活する女性の強いイメージを表したものだ。ところが時が経つにつれ、ニューヨークの街に、東洋的な流れが入り込んでいることに気づき始める。日本にないものを求めてニューヨークにやって来たが、日本では気づかなかった東洋的イメージの魅力を、皮肉にもニューヨークで発見することになったのである。そのインスピレーションから生まれたシリーズが「BELL」である。強い個性をもった顔と動きを感じさせる「ADA」に対し、「BELL」は、1960年代のマネキンを彷彿とさせるチャーミングな顔と静かにさりげなく佇む立ちポーズの美しさを表したシリーズだ。
この2年間の経験は、加野をはじめ参加メンバー全員の創作活動に充分な効果をもたらせたが、むしろ10年を経過した現時点における加野の言葉に注目したい。「あの2年間の経験は、今日の創作活動に多大な影響をもたらせている」とのことだ。2002年に加野が発表する新シリーズの完成度の高さを頂点に、時同じくして発表するニューヨークアトリエ参加組の目覚しい成長を見るにつけ、加野の一言は実感のこもった重みのある発言と言えよう。(文責:広報 藤井)
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ニューヨークアトリエ/1991年10 月
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加野のクロッキーが表紙になった「ADA」のパンフ
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粘土原型の「ADA」/ニューヨークアトリエ
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製品の「ADA」/東京造形室
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ニューヨーク生まれの「BELL」